2013年07月21日

不登校と安全感

居場所

 小中高等学校にスクールカウンセラーが配置されるようになって20年近く経ちます。本格的に導入されたのは、ここ10数年のことでしょうか。臨床心理士といえばスクールカウンセラーを思い浮かべる方も多いと思います。

 スクールカウンセラーが配置されるようになった背景には、学校における不登校児童生徒の増加がありました。学齢期の子どもをお持ちの方々の中には、自分の子どももいつか何かのきっかけで不登校になるのではないか、と不安を感じている方もいらっしゃることと思います。

 「不登校」とひとくちに言っても、ひとりひとりの子どもが抱える問題は多様です。不登校はひとつの現象に過ぎず、こういう問題を抱えた子どもが不登校になる、と一概に言うことはできません。また、私たちは、還元主義的なものの見方に慣れているせいか、何か問題が起きるとその原因を突き止めてはっきりさせたくなるものですが、不登校の原因は複雑に絡み合っており、特定できるものでもありません。

 私たちカウンセラーは、それぞれの子どもたちが抱える問題を複雑に絡み合った糸をほぐすように理解し、援助していくわけですが、そういう作業を繰り返す中で、原因は特定できなくても、不登校になっている子どもたち全員に共通している心理状態が見えてきます。それは、‘安全感が持てない状態にある’ということです。

 「自分の居場所がある」「自分の居場所がない」というフレーズが、あちこちで聞かれるようになって久しいですが、その‘自分の居場所がある’と感じられることが、まさに安全感が持てている状態なのだろうと思います。
 「ここが自分の居場所だ」と思う時、私たちは皆、その場に受け入れられている感覚を持っているものです。それは、ありのままの自分でいて良いのだ、と感じているということです。不登校になっている子どもたちは皆、自分には居場所がないと感じています。「学校に居場所がない」と感じているだけでなく、多くは「どこにも居場所がない」と感じています。

 学校で安全感が得られなくても、家庭で安心感、安全感が得られている子どもは不登校になりにくく、また、なったとしても、それを乗り越えて成長していくものです。子どもに、親にとって都合の良い子であることを求めてはいませんか。学校の成績が悪くても、親のいうことをきかなくても、悪さをしても、「これが我が子なのだ。何があっても絶対に見捨てない」という強い覚悟が子どもに安心感、安全感を与え、心の居場所を作るのです。
posted by MSCOスタッフ at 23:59| 心理エッセイ

2012年10月03日

子育ての終わり

シマウマの親子

 テレビや雑誌などで「子育てを終えた母親が・・・」という言い回しがよく使われますが、そのフレーズを聞くと毎回同じことを考えます。それは「その母親の子どもって何歳なのだろう」ということ。どういう状態になったら”子育てを終えた”と言えるのでしょうか。子育てに終わりはあるのでしょうか。

 カウンセラーという仕事をしていると、子育てに終わりはないのではないか、という気がすることがあります。30代、40代になっても、子どもとして親に育んでもらう必要のある方を相手にすることが多いからでしょう。現実的にはもう育ててもらうことは無理なわけですが、自分自身の中に育ちきっていない子どもの部分を抱えており、育ててくれる人を求めています。私たちカウンセラーの役割はそういう方々のいわゆる「育ち直し」を支えることですから、ある意味で‘子育てが仕事’と言えるかもしれません。そういうカウンセラー目線で子育ての終わりを考えると、やはり「精神的な自立」が子育ての終わりということになりそうです。

 一般的には、自立といえば「物理的な自立」を指します。幼児期はトイレットトレーニングにはじまり、ひとりで服を着脱する、はしを持って食べ物を自分の口に運ぶ、など身辺の自立がテーマになります。学童期からは徐々に家庭外の社会で自分の居場所を作ることがテーマとなり、青年期で本格的に家庭から離れるための準備をしていきます。そして、経済的な自立とともに生まれ育った家庭を離れることが最終的な自立と言えるでしょう。

 でも、「精神的な自立」というのはそのような物理的な自立とは少し違っています。先ほどの30代、40代になっても親からの世話を必要としている方たちの多くは物理的には自立を果たしています。でも、心は今でも生まれ育った家庭の中にあり、親からの愛情を求め続けているのです。なぜなら、彼らの中には、親から愛してもらえた、大事にしてもらえた、という気持ちが少ししかないからです。食事を抜くと栄養不足でからだがフラフラして立っていられなくなるように、愛情が不足していてもやはり同じことになってしまうのです。

 子育ての本質は愛情の供給です。必要な分の愛情を受け取ると、やがて子どもは親の愛情を「もうおなかがいっぱいなのでいらない」と疎ましく感じるようになります。でも、子どもにとってはそういう疎ましさが実は切なくもある。親の愛を必要としなくなったさびしさと、そういう自分を申し訳なく思う罪悪感があるのです。親は、平気な顔で「もうあなたの愛情はいらない」という子どもに腹を立ててしまいがちですが、子どもの方も実は強がっているだけで平気ではないのだと理解する必要があります。親の方も平気な顔で強がれたら、子育てがそこで終わるのではないでしょうか。
タグ:子育て 自立
posted by MSCOスタッフ at 22:55| 心理エッセイ

2012年02月10日

座禅体験

座禅

 少し前のことになりますが、自宅近くのお寺ではじめて座禅を体験しました。たまたま地元の広報誌で目にしたのがきっかけです。もともと興味があって、機会があればいつか体験してみたいと思っていました。

 座禅を組んだのは、小さな草庵の中です。まず、僧侶から禅定について簡単な説明を受けたあと、作法に則って足と手を組みます。目は半眼。視線を水平な状態から45度ぐらい落としたあたりに何か目印を見つけて、それを見つめるようにすると自ずと半眼になると教えられました。10分、15分ほど座禅を組んだあとは、歩きます。歩き方にも作法があり、摺るように歩きます。座禅を組む、歩く、ということを何回か繰り返しました。
ひとつひとつは日常的な動作ですが、「形」を決められると緊張してなかなか思うように出来ず、またそれがかえって新鮮に感じられます。

 その日は小雨が降っており、微かに葉をたたく雨音が聞こえていました。微かな雨音を聞くともなく聞きながら座禅を組んでいると、はじめは私と同じように座禅を組んでいる周囲の人たちの様子が気になってそわそわしたり、いろいろな考えが頭の中を錯綜していましたが、10分か15分くらいたった頃でしょうか。心の中のざわめきがしんと静まりかえりました。「水を打ったような静けさ」という言葉がありますが、まさにそのような心持ちです。心の中が、掃き清められたような清々しい気分になりました。

 帰る道すがら、座禅というのは行動療法だな、と思いました。行動療法というのは、「こうありたい」という理想的な型がまずあって、そこに自分を近づけていくことを目標に取り組むものです。つまり、気持ちを変えるために、まず「形」から入るわけです。座禅の作法は、気持ちを変化させるための「形」と言えるのではないかと思いました。ただ、座禅の場合は、作法という形を重んじる一方で、気持ちの持ち方の形はないわけです。あるがままの状態に心を置く。これは森田療法という心理療法と非常によく似ています。

 考えてみると、流派に限らず心理療法(カウンセリング)という行為そのものが、「対話」という日常行為を決められた時間、料金という「形」の中で行われるものなのですね。形が決められていることで、「話し合う」という日常行為が意味と目的を持つようになるわけです。でも、形があれば自ずと意味と目的が生まれてくるわけではありませんし、形骸化という言葉があるように、形は慣れを生みます。私たち心理士は、「形」の意味と目的に常に向き合っていなくてはならないと思ったのでした。
 
posted by MSCOスタッフ at 11:46| 心理エッセイ

2011年12月19日

言葉ではないつながり

つながり

 ちょっとした用件で街中にでかけた帰り道、人通りの少ないところで3歳くらいの子どもの泣き声が聞こえました。迷子かと思い、まわりを見回してみるとおよそ20mほど離れたところを若い女性が歩き去るすがたが見えます。子どもは、その女性に向かって泣いているようにも見えます。
 こんな場面に出くわすと、前後のことはわからないけれど何とも言えない気持ちになってしまいます。子どもの泣き声にせつなくなり「若いお母さんはどうするつもりなんだろう、まさか行ってしまうのかしら」と、気をもみます。

 思わずことの成り行きから目をはなせないでいると、道の曲がり角までいって立ち止まった若いお母さんは、肩でため息をついてから、ちらっと振り向くと、子どもに背中をみせたまま、その場にしゃがみ込みました。そうしたら、その子はピタリと泣きやんで、その背中めざして走り出しました。背中を向けたまま、待っているお母さん。その子は、どん!と身体ぜんぶをぶつけて、若いお母さんにおんぶしてもらったんです。
 まいったあ。そうかあ、ふたりの間にはちゃんとつながりがあるんだなあ。すごいなあ。

 親と子、夫婦、家族といった近しい関係は、近しいからこそ、お互いの気持ちや考えを言葉にして伝え合うことは大切だと思います。ただ、言葉が文字通りの意味しか伝わらないこともあります。そんな事がかさなると、そこで取りこぼされたものが、「わかってもらえない」思いとともに、関係そのものを変えてしまうこともあります。言葉のやりとりには、言葉に含めた気持ちの色合いやふくらみ、厚み、ニュアンスといったようなものが、言葉の意味と同時に細やかに表現され、そこにある関係の中を行き来しているのだと思います。

 関係の中で何かが通じ合うということは、なんといえばいいでしょうのか、チューニング? 回路? モード? 何かが共有されることで、伝え合っているものがあるように思えます。それが関係を温かいものにしているのかもしれないなあと、言葉のない若いお母さんと子どものやりとりにふれてふっくらとした空気を感じながら、思いをめぐらせました。
posted by MSCOスタッフ at 15:46| 心理エッセイ

2011年11月22日

大人の女性にとっての母親との関係

母娘

 女性のライフスタイルは、近年、ずいぶん選択肢が広がっていると言われています。
結婚や出産・子育て、働き方も社会活動の場も「こうでなければならない」といった制服のようなスタイルは少なくなっているかなと思います。それぞれが自由にコーディネートし、自分にあったスタイルを選んでいく。

 そんな大人の女性にとって、母親はどんな存在でしょう。
それまでの世代では、母親と娘はお互いにとって最も身近で、同じライフスタイルを当然とし、価値観を共にする理解者だったかもしれません。
最近の、選択肢が広がり様々なスタイルが形作られる中では、娘が自分らしいと感じるスタイルは、母親にとって新鮮で、言い換えると、理解しにくいものかもしれません。

 女性のライフスタイルの広がりが、最も身近な女性同士、母親と娘の距離感を変化させ、自分の価値観をあらためて意識することになったり……。
大人の女性にとって、母親との関係を振り返ることは、女性としての、大人としての、自分自身を考えるきっかけになるもののような気がします。
posted by MSCOスタッフ at 19:04| 心理エッセイ

2009年07月07日

自分の物語を作り直すことの意味について

自分の物語

−原稿執筆顛末記−
 昨年末に、以前から交流のあるフリーライターの方から、原稿の執筆依頼を受けました。本の題名はまだ決まっていませんが、「援助者をどう援助するか」というコンセプトでまとめられた本になるそうです。近々出版されることになっています。そこで今回私が依頼されたのは、「援助者自身が援助者としての自分を語る」というものでした。
カウンセラーは裏方の仕事ですから、自分自身のことをオープンにするのは、あまり気がすすみませんでしたが、自分の仕事を振り返る良い機会になるのではないかと思い、引き受けてみることにしました。

 ところが、気安く引き受けてしまったものの、原稿を書きはじめてすぐ壁に突き当たり、立ち往生することになりました。何故かというと、この仕事を志したときと現在とでは、仕事や自分自身に対する見方がずいぶん変わってきており、かつてカウンセラーを志した理由が、今の自分自身から見ると、どうも真実ではないような気がしてしまったからなのです。

 自分の仕事を振り返るどころか、カウンセラーとしての自分の物語のはじまりがわからないわけですから、しばらくは混乱して、まったく原稿を書き進めることができませんでした。でも、あるとき「そうか。ライフストーリーというのは、常に書き替えられ続けるものなのだ」ということに気づきました。つまり、かつてカウンセラーを志した頃と現在とでは、そこに至るまでの過去の意味づけが変わってきているのだということです。ただ、何がどう変わってきているかということについては、これまで意識したことがなかったので、手つかずで、未構成のまま放置されている状態でした。

 そのことがわかってから、かつて自分がどういう経験から、何を思ってカウンセラーを志し現在に至ったのか、という過去の視点から現在につながる道筋を追うのではなく、現在の自分の視点からさかのぼっていけばよいのだと思うようになりました。つまり、現在を起点にした新しい自分の物語を作り直す作業をすることが、自分自身を振り返ることなのだと理解したのです。

 物語を誰かに伝えるためには、過去から現在にいたるまでの経験がつながりを持ってまとめあげられている必要があります。その時々に感じたことが、認識され、意味を与えられ、さらに新たな感情の認識と意味づけにつながっていくことが本当の意味での経験です。つまり、人生の物語とは、単なる事実の積み重ねではなく、意味を与えられた感情の積み重ねであるということです。

 そういうわけで、私にとって今回の原稿執筆は、過去への道筋を追っていく中で、バラバラのまま道端に放置されたままの正体のわからない経験を拾い集め、意味づけをしてまとめあげていくという、たとえれば、日々重い荷物を片付け続けているような、思いの外腕力のいる難しい作業になりました。

 でも、その作業を通して強く実感したことは、人生に取り返しのつかないことはないのだな、ということです。失敗したと感じていたり、どうしても納得がいかずに悔やまれている過去の事実そのものを変えることはできませんが、そこに現在につながる新しい意味を見い出していくことは、生きている限り可能なはずです。それは、取り返しがつかないと思っていることを取り返すことが可能だということではないでしょうか。その気づきは、私自身に深い安堵と希望をもたらしてくれました。

 私たちの仕事には、クライアントの方々が新しい自分の物語を紡ぎ出すためのお手伝いをするという側面があります。それは、実りのある、前向きな行為であるとあらためて感じ、そこにある希望こそが、私自身がカウンセラーを続けている理由なのだと実感したのでした。


執筆した原稿は『援助職援助論』という本にまとまりました。
編著:吉岡隆(ソーシャルワーカー) 明石書店 刊
posted by MSCOスタッフ at 23:40| 心理エッセイ

2009年01月12日

頭×心×身体

学童クラブ

 先日、たまたま書かせていただいた学童クラブ(小学生を放課後預かる機関)を紹介する配布物にのせていただいた小文です。
※学童クラブはさまざまで、どこでも同じ対応であるとは、一概に言えません。紹介したクラブは、その一例です。
 子供のころの体験は、大人になってからも続く心の成長の土台を作りますし、パターンになって繰りかえすとも言われています。この文に書いた学童クラブで、子供たちの成長を目の当たりにしてあらためて、子供時代の体験の幅や奥行き、頭×心×身体のまるごとの実感って大切なのだなと感じたしだいです。


 『小学校の6年間は、子供の中に“自分の感情からいったん離れて考えることのできる思考力”が育つ時期です。この思考力は、相手の気持ちを理解する力や自発性への芽となりますし、学力の向上にも必要になるようです。低学年から高学年に向かって、どの科目も“抽象的な思考力”が求められるようになるからです。
では、この思考力はどのようにして育つのでしょうか。

 私たちの学童クラブの活動で日常的に行われている“子供同士でとことん話し合う” “役割に責任をもつ”ということ。実はこれは、思考力を育てる大きなバックアップとなります。

 例えば、毎年恒例となっている行事ですら“やるか、やらないか”から子供同士の話し合いで決めます。子供たちは、自分たちで役割を分担し、文字通り“自主運営”で計画し実行していきます。

 子供同士の話し合いというのは、実際には、妥当な結論に向けて大人が誘導してしまうことが多いものです。しかし、学童では子供たちの力を信じ、本当に最後まで“子供同士でとことん話し合う”ことをうながします。これによって、子供たちは自分と異なる思いや意見とどうやって理解しあえるのか、おのずと考えます。そうして、社会性の柱となるコミュニケーション力も身につけていきます。

 また、このような自主運営の中で“役割に責任をもつ”体験は、既にわかっている役割行動をなぞるような体験とは大きく異なります。ひとつひとつ自ら考え行動する。まさに頭をフル回転させ、それによって“抽象的な思考力”が引き出されます。

 さらに“責任をもつというのはどういうことなのか”といった、知識からは学べない、体験からしか身につかないものを得ることができるでしょう。

 そして大切なのは、これらの機会が子供にとっての“安心できる生活の場” “自分の居場所感のあるところ”で体験できることです。このような生活体験の場である学童は、子供の心の成長にとって“肥沃な土壌”のようだといえると思います。』
タグ:学童クラブ
posted by MSCOスタッフ at 01:43| 心理エッセイ