2017年08月30日

整骨とカウンセリング

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 先日、左の股関節が痛くなり、お尻や膝まで痺れてきたので整骨院に行きました。初回、まず、どこがどんな感じに何をすると痛いか、ということを伝えると、何かきっかけがあったのかときかれました。特に思い当たらないけど、前からよく違和感はあったと言うと、いろんな動きをさせられて、これは痛いか、どこから痛むかなどときかれました。
 それに答えていくと、最終的に先生から、骨盤がゆがんでいるので右足と左足の長さが違う。長い右足に左足を合わせるから左足の外側の筋肉が緊張し、そうすると逆に内側の股関節は縮こまるという状態が続いている。そのせいで左の股関節が痛くなっているのだろう、という見立てを伝えられました。
 お尻やひざがしびれているのは、股関節が痛いのをかばうと、周りの筋肉を代わりに使うようになり、そこを無理に使いすぎて硬くなっているからだろうと言われました。さらにその太ももから膝にかけての筋肉がつながっているお腹の内側にある腸腰筋も緊張していると言われました。
 治療ではまず凝っている筋肉をほぐされ、緊張しているところを緩められ、自宅でできるストレッチを教わり、また1週間後に来てください、と言われて終わりました。

 終わってから、これはカウンセリングに似ているなと思いました。違いは身体のことを扱うのか、心のことを扱うのかです。
 どちらも困った状態に対して、いつからそれは起きていて、何かきっかけがあるかきかれます。そして、なぜそうなっているのか、何が起きているのか見立てながらそれに応じた質問をしていきます。
 どちらも患者(来談者)が訴える現象は一つでもいろいろな部分がつながって影響しているからです。それから、起きていることの理解を伝え、固まって本来の動きをしていないところを緩めていくと、本来の自分の動きを取り戻していきます。
 どちらも行くと少し元気になります。でも一度では変わりません。そして一番大事なのは、どちらも他の人が代わってやってあげられないということです。自分の身体、自分の心には自分自身で目を向けて、気づいて、取り組んでいかないとよくならない、変わらない、ということです。
 私は、毎週整骨院に通い、ストレッチを続け、日常生活でも荷物を持つ手を変え、気づいたら左股関節の違和感はなくなっていました。そんな風にカウンセリングも自分の心に向きあって取り組んで行くことで、変化していくのです
posted by MSCOスタッフ at 23:01| 心理エッセイ

2017年08月10日

不安解消のエクササイズ

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 先日、システム・センタード・アプローチ研究会が主催するセミナーに参加しました。このセミナーは、イボンヌ・アガザリアンという、アメリカの心理療法士が創始したSCT(Systems-Centered Training/Therapy/Approach “http://www.systemscentered.com/”)の理論を学びながら、グループや個人のシステムについて理解し、自己理解と他者理解を深めることを目的としたグループ体験をするというものでした。

 SCTでは、気持ちがどのようにして生じたか、ということを重要視します。私たちは気持ちを言葉で語りますが、気持ちを表す言葉には「楽しい」「怒っている」など、感情をシンプルに表現するものと、「捨てられた」「無視された」など、その人の体験から生じた気持ちとそれにまつわるある種の考えや解釈の両方が合わさった複雑なものとがあります。
 実際の体験そのものから生み出される気持ちと、「捨てられた」とか「無視された」といった体験の解釈によって生み出される気持ちは異なっています。また、「捨てられた」とか「無視された」といった枠づけが生じると、その人は自動的に犠牲者の役割を取ることになります。  
 SCTでは、これらの枠づけ(防衛)をほどいて、ありのままの感覚的な体験からくる気持ちと、思考に誘発されて出てくる気持ちとの違いをわかるように探求し、まだ見ぬ新しいものを発見することを目指しています。

 このセミナーではいくつかのグループエクササイズを体験しました。なかでも「不安解消のエクササイズ」は不安な気持ちになった時に役に立つのではないかと思いました。
 このエクササイズでは、不安がどこから来ているのかを探し出し、思考に誘発されて出てくる気持ちと、私たちが本来注意を払うべき本物の体験との違いを見出そうとします。
 私たちが現実を確認しないまま、悲観的な予測を説明的に語る時、不安は高まってしまいます。また、楽観的な予測は、私たちが現実検討することから遠ざけてしまいます。SCTでは、不安は現実を間違って解釈しているシグナルだと考え、悲観的・楽観的予測は、私たちの探求心や一般常識を奪ってしまうと考えます。
 まず、「今、あなたを不安にしていることを言葉にしてみましょう」という問いかけがあり、自らの現実をチェックするように要求されます。
不安は、だいたい、次の3つの出所の中のどれか一つから湧いてきます。
 ・不安を喚起するような考え(悲観的な予測や、他者が考えていることに対する恐れ、など)
 ・あまりなじみのない身体感覚
 ・不確かさそのもの
 例えば、「友達に知れたら、嫌われるかもしれない」というのは、不安を喚起する思考です。不安にするのはその思考であって、現在の体験に対する防衛であり、今のありのままの体験ではないのです。
 エクササイズでは、「あなたは未来を100%予測できるのですか?」という介入をし、自分自身の思考が自分自身を苦しめる結果になっていることへの気づきを促し、さらに、どう感じるかを探求します。悲観的な予測がもたらす代償や、遠ざかっていた今のありのままの体験に目を向けていきます。

 好奇心を持ってまだ知らない新しいものに出会うことが、私たち人間のシステムが発達するための第一歩だ、とSCTは主張しています。私は、このセミナーに参加し、いつもの慣れ親しんだ考えやパターン、思い込みのために不安やあきらめの気持ちに支配され、前に進むチャンスを逃してしまうことがあると再認識しました。好奇心を持ち、未知のものとの出会いを楽しむことができたら、人生が豊かなものになるのではないかと思います。

 セミナーで学んだことをもとに、「依頼されたことができるかどうか不安だ」と感じている20代後半の会社員の架空ケースを別記事でご紹介します。

(参考文献:イヴォンヌ・M・アガザリアン著 鴨澤あかね訳 『システム・センタード・アプローチ −機能的サブグループで「今、ここで」を探求するSCTを学ぶ−』 創元社)
posted by MSCOスタッフ at 17:55| 心理エッセイ

2017年06月28日

自分が予期せぬ病気になってしまったとき・・

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 先日、病気の治療をしながら働く人の職場での支援についてお話を聴く機会がありました。この時の病気は癌疾患でしたが、治療中の8割の人が仕事の継続を望んでいるそうです。また、職場に相談しない人の半数以上が「周囲に心配をかけたくないから」という理由だそうです。(東京福祉保健局 がん患者の就労等に関する実態調査(H26))
 そして、癌治療中のメンタル面のサポートはされやすいが、それ以外に診断前の検査段階、治療方針検討期間、治療後の経過観察期のサポートも必要であるが、実際に相談できる場は少ないとのお話もありました。

 それまで健康で過ごしてきたところに、心身の疾患や障害が生じた時、その重大さによって出現の大きさの違いはあるとはいえ、ショックや混乱、病気の否認やそこから逃避、抑うつ、怒り、悲しみなど様々な感情や現象が生じます。
 そして治療中、また疾患によっては治療後も再発の不安や今後の生活への不安が続きます。それでも多くの場合は、普段の生活(仕事、育児、介護、家事など)と両立が求められ、疾患の治療や普段の生活の維持に重点がかかり、ご自身のメンタル面へのケアの優先順位が下がりやすくなります

 適切なメンタル面のサポートを受けることで、ある程度納得できる治療に向えることができたり、生活を送る上で負担のかかり過ぎない手段が見つけられたり、自分のおかれている状態を少しずつ受け入れられることに繋がります。
 一人で抱え込みすぎずに相談機関などをうまく使いメンタルケアを行なうことが重要です。その際にサポートし合える職場の風土作りの重要性も改めて考えさせられました。
タグ:病気
posted by MSCOスタッフ at 14:57| 心理エッセイ

2017年03月29日

自立の季節

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 最近耳にするラジオCMで、転勤族になった息子が家を出ることになったことを話す場面での父親との、面白いやり取りがありました。「俺は転勤族になるんだよ!」「そんな奴は出てイケー!」息子は「出て行ってやるよ!盆と正月とGW以外、帰ってこねーからなー!」聞いてるこちらが「ちゃんと帰ってくるんだ」と突っ込みたくなるオチ。家族の絆は結ばれています。お互い突き放すようなケンカ腰の物言いがそっくりな父親と息子。

 また、某マンガの1シーンですが、こんな自立もあります。駅のホームで心配そうな両親や家族に見送られる少女。心の中では、故郷の景色全部を軽々と肩にのせる巨人のような自分をイメージして電車に乗り込みます。心細さから逆に自分を大きくとらえ、同時に自分を育んでくれた環境と人とをどれだけ大事に思っているかが、読者に伝わります。

 「自立」を検索すると“自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに自分の力で物事をやっていくこと”とあります。子ども時代に育ててくれた人から離れて独り立ちしていくことです。

 人は感受性も柔らかく可塑性も高い子ども時代に親や近しい人からの影響をスポンジのように吸収し、粘土のように型どり、たたき台にしていきます。成長するにつれて、それらを咀嚼したり消化したりしながら、自分の身になじんだものとしていきます。そうして、親の影響を取り入れたり手放したりしながら自由に自分独自のものを作っていく過程があって、自立は進んでいきます。

 ただ、時に気付かないうちに親から取り入れた価値観や志向を咀嚼し消化しないまま、自分本来の感受性や志向とミックスさせずに無理に丸飲みしてしまっている場合があります。そうすると、自己否定の気持ちが芽生えてきます。自分で自分を認めることが難しくなってしまうのです。消化して自分のものにしたのか、親の複製になってしまったのかわからなくなってしまう場合もあります。これではいくら形だけ親から離れても自立ではありません。

 もし、自分を認められない感覚が身についてしまっているなら、いったん立ち止まって自分に向き合うことが大事です。親から取り入れたものを咀嚼し消化しないまま子ども時代のように丸飲みのままになっていないか、吟味することが必要です。そうすることで、親のものや子ども時代のものが自分の中に居座っていることに気付くことになるでしょう。

 それらが自己否定感を生み出すものとなっているなら、それを手放して今の自分自身を感じること、そして親をひとりの人として認めること。それが、自立の道を進むことを後押ししてくれることになるのではないかと思います。

 冒頭のラジオCMの父親とそっくりなケンカ腰の息子は、実家を出ることで父親と離れ自分の父親譲りのところに気付くことで、さらに自立が進むかもしれません。また、マンガの少女は肩にのせた故郷の景色を慈しみながらもこれから進む景色に目を向けていくことで、等身大の自分を認めていくことになるのかもしれません。

タグ:自立
posted by MSCOスタッフ at 22:29| 心理エッセイ

2016年11月28日

コミュニケーションは難しい!

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 私はいくつかの企業でカウンセラーとして勤務しています。研修やグループ懇談で、よくでる質問の一つが、上司、部下、同僚とどうコミュニケーションをとればいいかわからないということです。特に最近では、上司が部下に対して、また異性の相手に対してどのような発言がハラスメントになるのかという質問が多くあります。
 その際、伝え方や聴き方のコツをお伝えしますが、その前提として皆さんと共有したいこととしてお話しするのが、「コミュニケーションは難しい」ということです。

 コミュニケーションは「送り手と受け手と言語的・非言語的なメッセージを用いて、やり取りとして共有すること」で、送り手と受け手から成り立ちますが、送り手の発言は送り手が持っている価値観や経験から発せられ、また送り手のその時の声の調子や抑揚など態度やしぐさも加わって、受け手に伝わります。
 一方受け手は、受け手が持つ過去の体験や価値観、今おかれている状況によって、受け取り方が変わります。正確に相手に伝えること。相手の発言を理解するということは、基本的には難しく、『コミュニケーション』とはそこで生じるズレや誤解を調整することと言われています。 (参照:「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」金子書房2000)

 こんな例がありました。Aさんは普段とても真面目にきちんと業務をこなすタイプの人です。上司はAさんにある業務を依頼しましたが、他の業務も重なって忙しい状況を気遣い「君に負担をかけているね」と伝えました。
 この時Aさんは「また自分ばかりに責任をおしつけられている」というマイナスな思考が浮かびました。過去に別の上司に多くの業務を依頼され負担が大きいのにもかかわらず「大変だ」という状況を伝えられなかった体験がありました。その苦しい過去の経験が反射的によみがえってしまったのです。
 しかし、少し冷静になりAさんは現在の上司の人柄や状況をあわせて考え、今回は“仕事の押しつけ”ではなく、“気遣いつつ依頼してくれた”と思考を変えることができ、その仕事に前向きに取り組むことができました。

 「やりとり時の背景やそれぞれ価値観が違うなんて当たり前!」そのように理解していたとしても、自分に負担がかかっている時などは、目の前にいる相手とは違う他者や、自分の価値観が重なって、メッセージを異なって受けてしまうことが起こります。本来ズレを調整してお互いを理解していくには、やり取りの繰り返しが必要ですが、現代は各々が多忙で、メールやSNS上のやりとりが中心となり、相手を理解しきれないまま負担を抱えていることが多いように感じます。
 そういう今だからこそ、コミュニケーションは基本難しいということ、やりとりの繰り返しが必要であること。それを共有することは、相手と自分の関係をより冷静かつ客観的に捉えられることに繋がるということを深く理解してもらう為に、私も繰り返しお話をしています。
posted by MSCOスタッフ at 22:09| 心理エッセイ

2016年07月05日

ストレスチェックを受けてみて

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 ストレスチェック制度が導入され、受けられた方もいらっしゃるのではないかと思います。
 私も職場でストレスチェックを受ける機会がありましたので、受けてみて感じたこと、考えたことをお伝えしたいと思います。

 私が受けたのは、マークシート方式で、解答に5分程度かかるものでした。他の職場の人に聞くと、web上で解答するなど、色々な方式があるようです。

 職場のこと、健康のこと、家庭生活のことなど大きく3つの項目に分かれていました。導入されるときから、会社の人事や上司に伝わらないというアナウンスがあっても、伝わることをおそれて、本当のところは答えない人もいるから、正確なチェックができるのか?という危惧の声も巷で聞こえていました。
(チェック結果は本人の同意なしに会社には開示されません)

 実際受けてみると、やはり会社に伝わらないとはわかっていてもやはり本当のことはマークしづらいなと実感しました。具体的な仕事の負担感、人間関係などは、きっと無難な解答にするだろうなというのは感じました。健康状態は、ややつけやすく、本当に近い解答をつけることができました。家庭生活におけるチェックも、大事だなと感じました。受けた方の感想をちらちらうかがうと、「あんまり大したことを聞かれていないから、あれで役立つデータが得られるのかな」とか、「解答を自分で操作できるからどうだろう」などの話がありました。

 ストレスチェックを受けて思いましたが、最終的にどのように判定されるか、ということよりも、質問項目による問いかけから、自己チェックとして活用することに意味があるのかなと感じました。

 私自身もつけてみて、あーやはり体が疲れているのかなーとか、職場に対しても、自分はこんな風に捉えているんだな、など、自分がチェックすることにより、不調なところ、うまくいっていないところ、逆に、なんとかやれているところが、よくも悪くも自覚されます。それをそのままにせず、もし不具合なところがあったら、改善するにはどうしたらいいかを考えることが大事だなと感じましたし、ストレスチェックの有効活用でもあるのかなと思いました。

 チェックの結果で実際、これって病院に行ったらいいの? 環境調整が必要なの? どうにもならないことなの? など、不具合とわかっても手立てがわからない、ということも多いと思います。そういう場合は、カウンセリングなどで、相談をしてみることも、問題解決につながるのではないかと考えます。
posted by MSCOスタッフ at 22:47| 心理エッセイ

2016年04月28日

自分と向き合うことについて

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 趣味として写真表現の勉強をはじめた頃、「一般的な美意識ではなく、自分自身が美しいと感じるもの、面白いと感じるものを撮るのが写真表現だ」ということを繰り返し叩き込まれました。きれいな花を見れば、誰もが「きれいな花だ」と思いますし、美しい景色を見れば、誰もが「美しい風景だ」と思うものです。でも、それは、本当にその人が感じていることではなく、「きれいな花」「美しい風景」という記号化されたイメージを取り込んでいるだけ。そういうものを写真に収めたところで、それは、ただ「一般に美しいといわれているものだから写真に撮った」という撮影行為でしかなく、写真表現ではないのだということです。

 さて、そのように叩き込まれて自分独自の表現を求めてカメラを構えるわけですが、一般的な美意識を離れて、自分自身が美しい、面白い、と思う写真を撮ろうと対象物と対峙したときに、このもの(ひと)のここが面白い、と自覚することは、実は容易なことではありません。「何か心を惹かれる感じ」や「違和感」があればカメラのレンズを向け、ひたすら写真を撮り続けるしかありません。でも、それをプリントして形にしてみると、自分が何を見ていたのか、どんなものを面白いと感じるのかがぼんやりとわかってきます。
 さらに、目の肥えた写真家がその写真を見ると「あ、ここが面白かったんだね」とわかってくれたりする。自分ではぼんやりとしかわからなかった感覚が、他の人に見てもらうことで確認でき、きちんと形になることも多いのです。「そう。そこなんです」と共有できることの楽しさ。「人からわかってもらえること」のうれしさに心が躍る瞬間です。そういうことを繰り返していく中で、だんだん自分自身の撮りたいもの、自分自身の個性が見えてきたように思います。

 ひたすら写真を撮り続けてプリントすることを繰り返す作業は、なかなかしんどいところもあるのですが(特にフィルム写真は暗室作業があるのでたいへん)、それでも、自分の撮った写真を自分と一緒に面白がってくれる人がいることがうれしくて夢中で写真を撮り続けました。そして、「写真を撮り、見てもらうこと」を繰り返す中で私自身が思うようになったのは“人間というのは、自分を理解してもらいたい欲求が非常に強いのだな”ということです。
 これはおそらく、花や風景、人物をどうやったら上手く撮れるか、という一般的な『写真の撮り方教室』では感じなかったことではないかと思います。『写真表現』を突き詰める過程で見えてきたことなのです。

 人間という存在は、自身の個性を表現し、それを誰かにわかってもらいたい欲求があるのではないでしょうか。でも、そのためには、自分が何を見て何を感じているかを自覚しなくてはならない。つまり、自分自身と向き合わなくてはならないのです。
 花の美しさを誰かに伝え、共有できたとしても、“自分をわかってもらえた”と感じることはできないはずです。自分自身の独自な部分を自覚して、それを他者に伝えることを通じてしか、本当の意味で“自分をわかってもらえた”とは感じられないのではないでしょうか。「独自な自分」は、必ずしも他者から賞賛され、好かれるように感じられないかもしれません。でも、それが自分なら、受け入れていくしかないのだと思います。

 カウンセリングに来られる方の多くは、「人から受け入れてもらえないような自分は嫌だ」と言います。だから、そういう自分を隠して、あるいは、はじめから「いないこと」にして、人から受け入れられるように振る舞うのです。でも、自分からそのようにしていながら、一方で「誰もわかってくれない」とも言います。「本当は、自分のことをわかってほしい。でも、ありのままの自分では誰も受け入れてくれないだろう。それなら、人から好かれるような自分を演じている方がましだ」ということです。ただ、皆さんカウンセリングを受けに来られているわけですから、そのことが実はとても苦しいということなのです。

 自分自身と向き合うのは、確かに勇気がいることですし、苦しいものです。でも、自分と向き合い、欠点だらけの自分を自覚してそれを伝えることができたら、どこかにそういう自分を理解してくれる人がいるかもしれません。誰か1人でも理解してくれる人がいたら、それはどんなにかうれしいことでしょう。
posted by MSCOスタッフ at 17:09| 心理エッセイ

2016年02月26日

『ストレスチェック制度』義務化について

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  2015年12月から始まった『ストレスチェック制度』 。50人以上の従業員のいる全事業所にたいして義務化されました。
全体の流れは図のようになっています。
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(ストレスチェックの流れ(厚生労働省ウェブサイトより引用) クリックで拡大します

  図といってもなんだかやわかりにくいので、ポイントをご説明したいと思います。
  まず、Aの矢印のところ。ストレスチェック制度は、医療やメンタルヘルの専門家が実施することになっています。産業医をはじめとした医師や保健師、一定の研修を受けた看護師や精神保健福祉士です。そのために必要な手配や経費などは事業所が負担します。その点では、身体の定期検診のメンタル版とも言えます。
  次にBのところ。定期検診とはっきりと異なる点です。個人の情報の問題。ストレスチェックの結果は、事業所には報告されません。実施した専門家が情報を厳重に管理することが義務づけられていて、本人の同意無しには決して事業所に知らせません。
  Dにあるように、この制度の目的は、個々人が自分のストレス状態に気づくことを通して、セルフケアに意識を持ち、行動してもらう事だからです。
  また、Cの矢印にあるように、事業所はストレスチェックのデータから統計処理された全体の傾向を分析されます。ここから、事業所が抱えるストレス要因に目を向け、自らの改善目標を組み立てることが望まれています。過去、雇用者が被雇用者に定期検診の機会を用意することが当たり前になる社会の変化があったように、現代では社会全体のメンタル不調に対する意識が変わってきていることの表れとも言えるでしょう。
  そして大切なのは、高いストレス状態にある働く人へのケアですEの矢印にあるように、本人が希望すれば面接指導や就業上の調整が行われます。これは、あくまで本人の希望・申し出があってからのことですが、医師の面談指導を受けることを選べます。さらに必要に応じて、Fのように相談機関や専門医への紹介があります。
  本人に希望がない場合にも、高いストレス状態に対処するための情報や相談機関等の情報が提供されます。
  どうやら『ストレスチェック制度』の大きな目標は、個々人が自分のストレス状態に気付きセルフケアをすること、事業所が働く人のストレスを事業所の問題として捉えることにあるようです。私たち働く人としては、自分たちのココロの健康のケアに対して、事業所がひと役かってくれると捉え、かしこく活用したいものだと思います。
posted by MSCOスタッフ at 17:01| 心理エッセイ

2014年12月27日

見落とした大きな白熊 

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 ある研修会で、私たちは短いビデオの映像を見ました。講師から指示されたのは「これからお見せするビデオの中で、バスケットのボールが何回パスされたか数えて下さい」というものでした。ビデオには7,8人の若者がバスケットボールのコートを縦横無尽に動き回りながら、ボールのパスを繰り返す様子が映し出されていました。映像がスタートすると、入り乱れる人の動きに惑わされないようにしながら、私は素早いボールの動きに目を凝らし、「1,2,3…」と数えていきました。ほんの12,3秒ほどの映像が終わりました。正解は24回。無事に正解し、ホッとしているところに再度講師の言葉です。
 「では、先ほどの映像をもう一回、今度は気楽に見て下さい」とのこと。先ほどの映像が巻き戻され、先頭から再度流れました。すると、会場から「え〜!」という驚きの声が。なんと、その映像の中では、大きい白熊の着ぐるみがムーンウォークで若者の間を悠々と行ったり来たりしていたのです。パスの回数を数えている間、私は全くその着ぐるみに気づきませんでした。驚きの声がわいたのは、会場の多数の参加者が私と同じ体験をしたためだろう思います。自分の目に見えているものと、実際そこにあるものとがこんなに違うということを、身をもって実感した体験でした。

 私たちは自分の周りで起こる様々な状況を、ビデオカメラで撮るようにそのまま取り入れるのではなく、特定のものだけを取捨選択して取り入れています。関心のあること以外は目に入らないので、ボールの行方を気にした時、普段であれば見落とすはずのない大きな熊が見えませんでした。恋愛がスタートしたばかりの時期は、恋人の良い面ばかりが目に入るのも同じ作用でしょう。

 では、自分の心が弱くなっている時、たとえば自信を失っている時や何かに不安・緊張を感じている時などはどうでしょう。人生に恵まれず、明るい将来が見えないと嘆くある方は、自分がホームに着くと乗りたい電車のドアが閉まる、信号が赤になる、旅行で雨が降った、図書館が休館日だった、予約をしたのに歯科医院で待たされたと数々の不運を挙げ、さらに気持ちを落ち込ませていました。きっと、電車に間に合った時も青信号だった時も、旅先で晴れた日もあったでしょうが、そのような情報は記憶に残らず、自分が不運であることの確信を強める情報だけが選ばれてしまうようでした。
 そのような状態に陥っている時は、なかなか自分の捉え方の傾向に気づきにくいものです。いちど立ち止まって自分の捉え方に何かクセはないか、あるいは第三者の意見を聞いてみると良いと思います。
posted by MSCOスタッフ at 01:03| 心理エッセイ

2014年06月17日

『遊び』の持つ意味

バーベキュー

 梅雨が続きますが、晴れた日には爽やかな風が吹き、外で過ごす時間が気持ちの良い季節になりました。
 本格的なアウトドアシーズンを前に、BBQセットを買おうとお店に行った時のことです。そこには2つのグリルが展示されていました。1つはしっかりとした作りで少々揺らしてもビクともしないもの、もう1つはやや華奢で、手で揺らしてみるとグラグラします。1つ目の物の方がしっかりしているからこっちが良いな、と思いながら、念のため店員さんにお勧めを聞いてみました。
 すると私の思いに反し、店員さんからはグラグラする方がお勧めとの返答。店員さん曰く、アスファルトのように平坦な地面に置くのであればしっかりした作りでも良いけれど、土や川原など様々な条件の地面に置くことを考えるのであれば「遊び」があった方が対応しやすいとのことでした。それを聞きいてなるほどと思い、グラグラする方を選ぶことにしました。

 「『遊び』があった方が、様々な条件に対応しやすい」
。買い物の帰り道にそのことを思い出していると、なんだか人生にも通じる話のように思えてきました。この場合の「遊び」というのは「余裕」や「ゆとり」と言い換えられるものです。
 「しっかり」していることは決して悪いことではありませんが、それは「硬さ」にもつながります。平坦な道が続けば良いですが、人生、時には石ころだらけになったり、ぬかるんで滑りやすい道を歩いて行かなければならない時もあります。柔軟性がなく、余裕がない状態で今を生きていると予想外のことが起きた時にうまく対応できません。遊びの要素や心の余裕を生活に上手にちりばめることで、少々の変化や試練にも柔軟に対応でき、折り合ったりかわしたりということができるのでしょう。

 同じ「遊び」でも、子どもの「遊び」は豊かな人生を進む上での基盤となります。遊びの中で子どもは、自分から進んで何かと向き合う主体性、様々な出来事に対して試行錯誤する力、自ら考えたことに辿りつこうとする力を育んでいると言われます。それらは先ほどの平たんではない道を進む力にもつながってくるように思います。
 誰に言われなくても葉っぱを熱心に集め、何としても両手に持とうと葉がこぼれ落ちては拾うことを繰り返すうちに洋服の裾をもって器にすることを思いつき、最後は地面に広げてお店屋さんごっこを始める…。そんな風に没頭して遊びこむ子どもの姿からは、大げさかもしれませんが、小さな身体から生まれる大きなエネルギーを感じます。

 これら余裕やゆとりとしての「遊び」、豊かな人生につながる「遊び」を日々の中で忘れずにいたいものです。
タグ:遊び
posted by MSCOスタッフ at 13:57| 心理エッセイ

2014年03月24日

「雪かき」体験

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 2月は記録的な大雪で、関東ではかなり混乱がありました。私は辺鄙な地域に住んでいるので、普段は車で職場に向かうしか交通手段がないのですが、道も車も完全に埋もれてしまい、さらには近所の電線が切れて「ビビビビ・・・」とぶら下がっている等、ちょっと愕然とする風景でした。自然災害といっていいレベルだったと思いますが、東北の震災を思い出した方も多かったようで、カウンセリングの中でも「自分にとってどういう体験だったか」振り返る機会が多くありました。

 そこで興味深かったのは、学校・職場が急に休みになったりする非日常の中で行った「雪かき」が、とても印象的に体験されていたことでした。大きく分けると、1つには、「雪かき」という仕事がご近所さん、地域の方々と『共有』するものとして意識され、孤独感が和らぎ安心感を感じられたという方が何人かいらっしゃったこと。もう1つには、「雪かき」を通じて、生きている『実感』や『手応え』を体験された方が何人かいらっしゃったことです。

 前者のように周囲との連帯感を感じられ安心できた、という方は結構多いのではないでしょうか。私が勤務しているクリニックのデイケアでは、「いつもは近所の人の目が怖いけのだれど、「雪かき」をきっかけに声を掛け合える体験ができたことで、また自分が貢献できる感覚を直に味わうことで怖さがかなり薄くなった」と、とても生き生きと話しをされる方が複数いらっしゃいました。私自身も、駐車場から車を発掘しても幹線道路までの道のりは遠いので「明日の出勤も絶望的かなあ」と感じていた朝から、“地域の雪かきチーム”が自然発生し、声かけ合いながら見通しと希望も湧いてきて一日で開通するという“偉業”を共有できる機会を得られたので、よりしっくり感じられたのでした。非日常の感じ、“戦友”のようなある種の危機感を共有している感覚が関係性を強化して、「独りではない」という安心感を生んでいたようにも思われます。こうしたことはやはり、体験を通じてでないと湧いてこない感覚でしょう。

 生きる『実感』や『手応え』を感じたという後者の例では、文字通り手に雪の重みを感じながら、やっただけ成果が見える感じ、道が開けていく感じが体感としてわかる、というのが大きな要素であったようです。カウンセリングの中で『実感』『手応え』をテーマとして共有、意識されている方も多いのですが、「雪かき中に初めて『手応え』ってこういうことかな、とわかった」とおっしゃっていた方がおられたのが印象的でした。目に見えない『こころの仕事』として取り組んでいく中で、目に見えてわかる、身体感覚でわかる=『実感』『手応え』ということがどこか現実生活の中で補填されていかないと、やはり『こころの仕事』としても完成しないのだろうと思われます。

 カウンセリングは、はじめに『何の為に我々はカウンセリングとして会うのか?』を一緒に吟味させていただくことから始まります。まずは大雪の様に「何か大変なことを共有すること」で、絶望的とも思える感覚がまた違った視点で多面的に見えてきますし、「こころの仕事」に取りかかる見通しや意欲もわいてくるものだからです。
 
 また、なんとなく日常を過ごしてしまうと、自分にとっての大切な体験というものが目の前にあってもなかなか意識できなかったり、あっても薄れてしまったりすることはとても多いものだと思います。自分にとってのテーマを整理したり明らかにして、消化/昇華していきやすくするお手伝いをするものがカウンセリングというものなのだと改めて感じ入った大雪体験でした。
posted by MSCOスタッフ at 00:39| 心理エッセイ

2014年02月11日

「想像力」がもたらす「力」

砂団子

 砂場で遊ぶ3歳の子どもたちの話です。砂のお団子を作って並べています。ある子どもが、そばにいた保育者に「お団子をどうぞ」と差し出します。受け取った保育者は食べるまねをしてから「ごちそうさま。ああ美味しい。クリームの味がしますね」と応えました。別のクラスでは別の保育者が、食べるまねの後「ごちそうさま。ああ美味しい」と応えました。

 2人の保育者の応対は同じように見えるけれど、この後の子どもたちの行動はまるで違ったものになりました。「クリームの味」と言われた子どものクラスでは「こんどはいちご味」「きな粉がついてるの」水に砂を混ぜて「コーヒーをどうぞ」とレストランごっこに発展していきました。しかし別のクラスは、相変わらず「お団子どうぞ」を繰り返し、たくさん作ったり並べる遊びを続けています。

 この話は、内田伸子という方の想像力を育てることを考える本にあった内容です。この例から言えることは、大人が、子どもに代わって“見えないものを見て、言葉に表す”ことをしたかどうかで、2つのクラスの子どもたちの想像活動の中身が変わり、そこから行動と体験そのものが、驚くほど質的に変わってしまったということです。


 想像力を育てること、引き出すこと。これは子どもの話だけではありません。
 ユング心理学では、想像力が生み出すイメージには、悩みや行き詰まりの原因となった葛藤や矛盾を、まとめ上げ進展させる性質があると言われています。イメージの力によって、出口が見つからない行き詰まりは角度を変え、出口を見出すことができたり、抱えきれなくなった問題はまとまりを持つことで向き合うことができるようになります。そして、次のステップへの可能性が動き出してくるといえます。

 「想像力」を自由に働かせることで、自分の心の世界に埋れている生きたイメージをとらえる、向き合う、体験する。それによって、一面的でなく多面的・柔軟な認知や思考をしていくことが可能になります。そして、自分でも知らなかった豊かな世界や可能性が自分の中にあることを発見する。

 カウンセリングをしていて、クライアントが「想像力」を働かせることを通して自分の力を引き出していくのを目にするたびに「想像力」がもたらすものに惹きつけられます。子どもたちの例のように「見えないものを見て言葉に表す─想像力」を活かして、それまでの自分の「繰り返し」を脱し、視界を広げて、のびやかに踏み出して行く。それ自体、とても創造的なことに思えます。
posted by MSCOスタッフ at 00:00| 心理エッセイ

2013年08月17日

復職デイケアとカウンセリング

復職デイケア

 ここ数年、職場ストレスで休職した際に、職場復帰前に復職デイケア、ショートケアに通う方が増えています。復職デイケアやショートケアは、主にクリニックや、保健センターに併設されています。目的としては、休養した後に、いきなり職場に復帰するのではなく、1日の生活のリズム、1週間のリズムを整え、また再発しないように、休職にいたった経緯を振り返ったり、新しい対処法を身に着けるなどの準備をするところです。

 施設によって、プログラムの内容は異なりますが、「個人ワーク」といって、自分で、本を読む、簡単な書類作りをしてみる、など実際に作業をすることで、職場の感覚を思い出し、集中力をあげる役割があります。

 また、グループでのプログラムでは、職場で困ったこと、復職する際に不安なことなど、テーマを決めてグループでディスカッションしたり、簡単な運動、手先を動かすようなことを行ったりします。最初は、その場にいるだけで疲れを感じる方も、何か月かたつと、グループをまとめたり、積極的に活動する様子がみられ、毎日同じ場所に行って課題をこなす大切さを感じます。

 何といってもグループでのディスカッション、またグループで行う認知行動療法や、アサーションなどのワークは、参加している人にとってとても役に立つようです。同じテーマで話をしても、それぞれ色々な見方があったり、考え方があったり、ということを実際に聞いて体験したり、自分の話したことについて、参加者から意見をもらったりすることで、気持ちが楽になって、不安が低減することも少なくありません。

 ただ、グループでの活動は、それなりに疲れるものです。自分が言いたいことを全部言えるわけではありませんし、相手の話に、疑問を感じても直接言えないこともあります。そのこと自体、日頃職場でも感じていたやりづらさそのもの、ということもよくあります。

 そういう場合にはカウンセリングもうまく併用しましょう。カウンセリングは1対1の作業ですので、本人がグループの場で感じたやりづらさを丁寧に振り返り、本人のとりがちなパターンや、そのときどのような気持ちからその行動を選ぶのかなどを見つけていく作業をします。その繰り返しで、休職前とは異なる考え方ができたり、行動ができたりしていきます。

 復職デイケアは復職した時点で卒業ですが、カウンセリングは、復職後も定期的に利用することで、再発のリスクをできる限り減らすことができます。
posted by MSCOスタッフ at 15:06| 心理エッセイ

2013年07月21日

不登校と安全感

居場所

 小中高等学校にスクールカウンセラーが配置されるようになって20年近く経ちます。本格的に導入されたのは、ここ10数年のことでしょうか。臨床心理士といえばスクールカウンセラーを思い浮かべる方も多いと思います。

 スクールカウンセラーが配置されるようになった背景には、学校における不登校児童生徒の増加がありました。学齢期の子どもをお持ちの方々の中には、自分の子どももいつか何かのきっかけで不登校になるのではないか、と不安を感じている方もいらっしゃることと思います。

 「不登校」とひとくちに言っても、ひとりひとりの子どもが抱える問題は多様です。不登校はひとつの現象に過ぎず、こういう問題を抱えた子どもが不登校になる、と一概に言うことはできません。また、私たちは、還元主義的なものの見方に慣れているせいか、何か問題が起きるとその原因を突き止めてはっきりさせたくなるものですが、不登校の原因は複雑に絡み合っており、特定できるものでもありません。

 私たちカウンセラーは、それぞれの子どもたちが抱える問題を複雑に絡み合った糸をほぐすように理解し、援助していくわけですが、そういう作業を繰り返す中で、原因は特定できなくても、不登校になっている子どもたち全員に共通している心理状態が見えてきます。それは、‘安全感が持てない状態にある’ということです。

 「自分の居場所がある」「自分の居場所がない」というフレーズが、あちこちで聞かれるようになって久しいですが、その‘自分の居場所がある’と感じられることが、まさに安全感が持てている状態なのだろうと思います。
 「ここが自分の居場所だ」と思う時、私たちは皆、その場に受け入れられている感覚を持っているものです。それは、ありのままの自分でいて良いのだ、と感じているということです。不登校になっている子どもたちは皆、自分には居場所がないと感じています。「学校に居場所がない」と感じているだけでなく、多くは「どこにも居場所がない」と感じています。

 学校で安全感が得られなくても、家庭で安心感、安全感が得られている子どもは不登校になりにくく、また、なったとしても、それを乗り越えて成長していくものです。子どもに、親にとって都合の良い子であることを求めてはいませんか。学校の成績が悪くても、親のいうことをきかなくても、悪さをしても、「これが我が子なのだ。何があっても絶対に見捨てない」という強い覚悟が子どもに安心感、安全感を与え、心の居場所を作るのです。
posted by MSCOスタッフ at 23:59| 心理エッセイ

2012年10月03日

子育ての終わり

シマウマの親子

 テレビや雑誌などで「子育てを終えた母親が・・・」という言い回しがよく使われますが、そのフレーズを聞くと毎回同じことを考えます。それは「その母親の子どもって何歳なのだろう」ということ。どういう状態になったら”子育てを終えた”と言えるのでしょうか。子育てに終わりはあるのでしょうか。

 カウンセラーという仕事をしていると、子育てに終わりはないのではないか、という気がすることがあります。30代、40代になっても、子どもとして親に育んでもらう必要のある方を相手にすることが多いからでしょう。現実的にはもう育ててもらうことは無理なわけですが、自分自身の中に育ちきっていない子どもの部分を抱えており、育ててくれる人を求めています。私たちカウンセラーの役割はそういう方々のいわゆる「育ち直し」を支えることですから、ある意味で‘子育てが仕事’と言えるかもしれません。そういうカウンセラー目線で子育ての終わりを考えると、やはり「精神的な自立」が子育ての終わりということになりそうです。

 一般的には、自立といえば「物理的な自立」を指します。幼児期はトイレットトレーニングにはじまり、ひとりで服を着脱する、はしを持って食べ物を自分の口に運ぶ、など身辺の自立がテーマになります。学童期からは徐々に家庭外の社会で自分の居場所を作ることがテーマとなり、青年期で本格的に家庭から離れるための準備をしていきます。そして、経済的な自立とともに生まれ育った家庭を離れることが最終的な自立と言えるでしょう。

 でも、「精神的な自立」というのはそのような物理的な自立とは少し違っています。先ほどの30代、40代になっても親からの世話を必要としている方たちの多くは物理的には自立を果たしています。でも、心は今でも生まれ育った家庭の中にあり、親からの愛情を求め続けているのです。なぜなら、彼らの中には、親から愛してもらえた、大事にしてもらえた、という気持ちが少ししかないからです。食事を抜くと栄養不足でからだがフラフラして立っていられなくなるように、愛情が不足していてもやはり同じことになってしまうのです。

 子育ての本質は愛情の供給です。必要な分の愛情を受け取ると、やがて子どもは親の愛情を「もうおなかがいっぱいなのでいらない」と疎ましく感じるようになります。でも、子どもにとってはそういう疎ましさが実は切なくもある。親の愛を必要としなくなったさびしさと、そういう自分を申し訳なく思う罪悪感があるのです。親は、平気な顔で「もうあなたの愛情はいらない」という子どもに腹を立ててしまいがちですが、子どもの方も実は強がっているだけで平気ではないのだと理解する必要があります。親の方も平気な顔で強がれたら、子育てがそこで終わるのではないでしょうか。
タグ:子育て 自立
posted by MSCOスタッフ at 22:55| 心理エッセイ

2012年02月10日

座禅体験

座禅

 少し前のことになりますが、自宅近くのお寺ではじめて座禅を体験しました。たまたま地元の広報誌で目にしたのがきっかけです。もともと興味があって、機会があればいつか体験してみたいと思っていました。

 座禅を組んだのは、小さな草庵の中です。まず、僧侶から禅定について簡単な説明を受けたあと、作法に則って足と手を組みます。目は半眼。視線を水平な状態から45度ぐらい落としたあたりに何か目印を見つけて、それを見つめるようにすると自ずと半眼になると教えられました。10分、15分ほど座禅を組んだあとは、歩きます。歩き方にも作法があり、摺るように歩きます。座禅を組む、歩く、ということを何回か繰り返しました。
ひとつひとつは日常的な動作ですが、「形」を決められると緊張してなかなか思うように出来ず、またそれがかえって新鮮に感じられます。

 その日は小雨が降っており、微かに葉をたたく雨音が聞こえていました。微かな雨音を聞くともなく聞きながら座禅を組んでいると、はじめは私と同じように座禅を組んでいる周囲の人たちの様子が気になってそわそわしたり、いろいろな考えが頭の中を錯綜していましたが、10分か15分くらいたった頃でしょうか。心の中のざわめきがしんと静まりかえりました。「水を打ったような静けさ」という言葉がありますが、まさにそのような心持ちです。心の中が、掃き清められたような清々しい気分になりました。

 帰る道すがら、座禅というのは行動療法だな、と思いました。行動療法というのは、「こうありたい」という理想的な型がまずあって、そこに自分を近づけていくことを目標に取り組むものです。つまり、気持ちを変えるために、まず「形」から入るわけです。座禅の作法は、気持ちを変化させるための「形」と言えるのではないかと思いました。ただ、座禅の場合は、作法という形を重んじる一方で、気持ちの持ち方の形はないわけです。あるがままの状態に心を置く。これは森田療法という心理療法と非常によく似ています。

 考えてみると、流派に限らず心理療法(カウンセリング)という行為そのものが、「対話」という日常行為を決められた時間、料金という「形」の中で行われるものなのですね。形が決められていることで、「話し合う」という日常行為が意味と目的を持つようになるわけです。でも、形があれば自ずと意味と目的が生まれてくるわけではありませんし、形骸化という言葉があるように、形は慣れを生みます。私たち心理士は、「形」の意味と目的に常に向き合っていなくてはならないと思ったのでした。
 
posted by MSCOスタッフ at 11:46| 心理エッセイ

2011年12月19日

言葉ではないつながり

つながり

 ちょっとした用件で街中にでかけた帰り道、人通りの少ないところで3歳くらいの子どもの泣き声が聞こえました。迷子かと思い、まわりを見回してみるとおよそ20mほど離れたところを若い女性が歩き去るすがたが見えます。子どもは、その女性に向かって泣いているようにも見えます。
 こんな場面に出くわすと、前後のことはわからないけれど何とも言えない気持ちになってしまいます。子どもの泣き声にせつなくなり「若いお母さんはどうするつもりなんだろう、まさか行ってしまうのかしら」と、気をもみます。

 思わずことの成り行きから目をはなせないでいると、道の曲がり角までいって立ち止まった若いお母さんは、肩でため息をついてから、ちらっと振り向くと、子どもに背中をみせたまま、その場にしゃがみ込みました。そうしたら、その子はピタリと泣きやんで、その背中めざして走り出しました。背中を向けたまま、待っているお母さん。その子は、どん!と身体ぜんぶをぶつけて、若いお母さんにおんぶしてもらったんです。
 まいったあ。そうかあ、ふたりの間にはちゃんとつながりがあるんだなあ。すごいなあ。

 親と子、夫婦、家族といった近しい関係は、近しいからこそ、お互いの気持ちや考えを言葉にして伝え合うことは大切だと思います。ただ、言葉が文字通りの意味しか伝わらないこともあります。そんな事がかさなると、そこで取りこぼされたものが、「わかってもらえない」思いとともに、関係そのものを変えてしまうこともあります。言葉のやりとりには、言葉に含めた気持ちの色合いやふくらみ、厚み、ニュアンスといったようなものが、言葉の意味と同時に細やかに表現され、そこにある関係の中を行き来しているのだと思います。

 関係の中で何かが通じ合うということは、なんといえばいいでしょうのか、チューニング? 回路? モード? 何かが共有されることで、伝え合っているものがあるように思えます。それが関係を温かいものにしているのかもしれないなあと、言葉のない若いお母さんと子どものやりとりにふれてふっくらとした空気を感じながら、思いをめぐらせました。
posted by MSCOスタッフ at 15:46| 心理エッセイ

2011年11月22日

大人の女性にとっての母親との関係

母娘

 女性のライフスタイルは、近年、ずいぶん選択肢が広がっていると言われています。
結婚や出産・子育て、働き方も社会活動の場も「こうでなければならない」といった制服のようなスタイルは少なくなっているかなと思います。それぞれが自由にコーディネートし、自分にあったスタイルを選んでいく。

 そんな大人の女性にとって、母親はどんな存在でしょう。
それまでの世代では、母親と娘はお互いにとって最も身近で、同じライフスタイルを当然とし、価値観を共にする理解者だったかもしれません。
最近の、選択肢が広がり様々なスタイルが形作られる中では、娘が自分らしいと感じるスタイルは、母親にとって新鮮で、言い換えると、理解しにくいものかもしれません。

 女性のライフスタイルの広がりが、最も身近な女性同士、母親と娘の距離感を変化させ、自分の価値観をあらためて意識することになったり……。
大人の女性にとって、母親との関係を振り返ることは、女性としての、大人としての、自分自身を考えるきっかけになるもののような気がします。
posted by MSCOスタッフ at 19:04| 心理エッセイ

2009年07月07日

自分の物語を作り直すことの意味について

自分の物語

−原稿執筆顛末記−
 昨年末に、以前から交流のあるフリーライターの方から、原稿の執筆依頼を受けました。本の題名はまだ決まっていませんが、「援助者をどう援助するか」というコンセプトでまとめられた本になるそうです。近々出版されることになっています。そこで今回私が依頼されたのは、「援助者自身が援助者としての自分を語る」というものでした。
カウンセラーは裏方の仕事ですから、自分自身のことをオープンにするのは、あまり気がすすみませんでしたが、自分の仕事を振り返る良い機会になるのではないかと思い、引き受けてみることにしました。

 ところが、気安く引き受けてしまったものの、原稿を書きはじめてすぐ壁に突き当たり、立ち往生することになりました。何故かというと、この仕事を志したときと現在とでは、仕事や自分自身に対する見方がずいぶん変わってきており、かつてカウンセラーを志した理由が、今の自分自身から見ると、どうも真実ではないような気がしてしまったからなのです。

 自分の仕事を振り返るどころか、カウンセラーとしての自分の物語のはじまりがわからないわけですから、しばらくは混乱して、まったく原稿を書き進めることができませんでした。でも、あるとき「そうか。ライフストーリーというのは、常に書き替えられ続けるものなのだ」ということに気づきました。つまり、かつてカウンセラーを志した頃と現在とでは、そこに至るまでの過去の意味づけが変わってきているのだということです。ただ、何がどう変わってきているかということについては、これまで意識したことがなかったので、手つかずで、未構成のまま放置されている状態でした。

 そのことがわかってから、かつて自分がどういう経験から、何を思ってカウンセラーを志し現在に至ったのか、という過去の視点から現在につながる道筋を追うのではなく、現在の自分の視点からさかのぼっていけばよいのだと思うようになりました。つまり、現在を起点にした新しい自分の物語を作り直す作業をすることが、自分自身を振り返ることなのだと理解したのです。

 物語を誰かに伝えるためには、過去から現在にいたるまでの経験がつながりを持ってまとめあげられている必要があります。その時々に感じたことが、認識され、意味を与えられ、さらに新たな感情の認識と意味づけにつながっていくことが本当の意味での経験です。つまり、人生の物語とは、単なる事実の積み重ねではなく、意味を与えられた感情の積み重ねであるということです。

 そういうわけで、私にとって今回の原稿執筆は、過去への道筋を追っていく中で、バラバラのまま道端に放置されたままの正体のわからない経験を拾い集め、意味づけをしてまとめあげていくという、たとえれば、日々重い荷物を片付け続けているような、思いの外腕力のいる難しい作業になりました。

 でも、その作業を通して強く実感したことは、人生に取り返しのつかないことはないのだな、ということです。失敗したと感じていたり、どうしても納得がいかずに悔やまれている過去の事実そのものを変えることはできませんが、そこに現在につながる新しい意味を見い出していくことは、生きている限り可能なはずです。それは、取り返しがつかないと思っていることを取り返すことが可能だということではないでしょうか。その気づきは、私自身に深い安堵と希望をもたらしてくれました。

 私たちの仕事には、クライアントの方々が新しい自分の物語を紡ぎ出すためのお手伝いをするという側面があります。それは、実りのある、前向きな行為であるとあらためて感じ、そこにある希望こそが、私自身がカウンセラーを続けている理由なのだと実感したのでした。


執筆した原稿は『援助職援助論』という本にまとまりました。
編著:吉岡隆(ソーシャルワーカー) 明石書店 刊
posted by MSCOスタッフ at 23:40| 心理エッセイ

2009年01月12日

頭×心×身体

学童クラブ

 先日、たまたま書かせていただいた学童クラブ(小学生を放課後預かる機関)を紹介する配布物にのせていただいた小文です。
※学童クラブはさまざまで、どこでも同じ対応であるとは、一概に言えません。紹介したクラブは、その一例です。
 子供のころの体験は、大人になってからも続く心の成長の土台を作りますし、パターンになって繰りかえすとも言われています。この文に書いた学童クラブで、子供たちの成長を目の当たりにしてあらためて、子供時代の体験の幅や奥行き、頭×心×身体のまるごとの実感って大切なのだなと感じたしだいです。


 『小学校の6年間は、子供の中に“自分の感情からいったん離れて考えることのできる思考力”が育つ時期です。この思考力は、相手の気持ちを理解する力や自発性への芽となりますし、学力の向上にも必要になるようです。低学年から高学年に向かって、どの科目も“抽象的な思考力”が求められるようになるからです。
では、この思考力はどのようにして育つのでしょうか。

 私たちの学童クラブの活動で日常的に行われている“子供同士でとことん話し合う” “役割に責任をもつ”ということ。実はこれは、思考力を育てる大きなバックアップとなります。

 例えば、毎年恒例となっている行事ですら“やるか、やらないか”から子供同士の話し合いで決めます。子供たちは、自分たちで役割を分担し、文字通り“自主運営”で計画し実行していきます。

 子供同士の話し合いというのは、実際には、妥当な結論に向けて大人が誘導してしまうことが多いものです。しかし、学童では子供たちの力を信じ、本当に最後まで“子供同士でとことん話し合う”ことをうながします。これによって、子供たちは自分と異なる思いや意見とどうやって理解しあえるのか、おのずと考えます。そうして、社会性の柱となるコミュニケーション力も身につけていきます。

 また、このような自主運営の中で“役割に責任をもつ”体験は、既にわかっている役割行動をなぞるような体験とは大きく異なります。ひとつひとつ自ら考え行動する。まさに頭をフル回転させ、それによって“抽象的な思考力”が引き出されます。

 さらに“責任をもつというのはどういうことなのか”といった、知識からは学べない、体験からしか身につかないものを得ることができるでしょう。

 そして大切なのは、これらの機会が子供にとっての“安心できる生活の場” “自分の居場所感のあるところ”で体験できることです。このような生活体験の場である学童は、子供の心の成長にとって“肥沃な土壌”のようだといえると思います。』
タグ:学童クラブ
posted by MSCOスタッフ at 01:43| 心理エッセイ