2018年11月01日

「相手に自分を投影させる」という現象について

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 恩田陸『蜜蜂と遠雷』という本を最近読みました。これは、世界各国の若者たちが競う国際的なピアノコンクールの何日間かの物語です。主人公は主に3人います。母の死をきっかけにステージを去った元天才少女、天才少女の幼馴染で、少女に見出されその後海外で才能を開花させた青年、そして父親の仕事で海外を渡り歩きながら、ピアノも持たずに、でも天性の耳の良さで有名なピアノ教授に人知れず育てられた少年。その他、彼女を支える友人、サラリーマンとして働きながら最後の夢としてコンクールに出た青年、コンクールの審査員などがからみながら、物語は展開していきます。

 この中で、父親の仕事で海外を渡り歩いた天性の耳の良さをもつ少年が、物語の核となっているのですが、この彼が、表舞台にいきなり出てきて、その独特の経歴から、これまでの常識を覆すようなピアノ演奏の世界を繰り広げ、聴く人々に畏怖や激しい感情の波を起こさせて、その人たちの成長や決断に影響を与えていく、というのが大まかなストーリーです。

 例えば、元天才少女は、ピアノ界に自分が戻れるかどうか自信がなかったのですが、少年の演奏をききながら、頭の中で少年が自分に語りかけてくるのを感じ、その対話から、自分がどんなに音で溢れた世界が好きで、楽しくて、音楽をこういうやり方で奏でたいと思っている、ということに気づいたり、音楽から背を向けた自分がいかに傲慢だったかということに気づいたりして、予選を進めるごとに確固たる姿勢で音楽と向き合う覚悟を決めていきます。少年が直接、元天才少女に話しかけたわけではありません。元天才少女が少年の演奏を聴きながら、頭の中で繰り広げたことです。

 物語では、周りの大人たちが一方的に、この元天才少女のように、さまざまな葛藤や見ないようにしていた自身の弱さを少年という鏡に映し出して、怒ったり、泣いたりします。この少年が自分が人に与える影響について全く無頓着で気づいていないために、「一方的に」というのが際立って見えるのがみそだと思うのです。

 このように、相手が意図しているわけではなく、自分が勝手に相手に自分を鏡のように映し出して、相手が自分にそのようにしているかのように感じる、ということは日々私たちが行っていることです。

 例えば、恋愛関係で、相手に自分の理想像を映し出して、その姿を見て相手を好きになる、とか、上司から嫌われていると思っていたけど、実は自分が上司を嫌っていてそれを相手に投影して相手が思っているかのように感じていた、とか。心理学用語で投影性同一視とよばれます。作者が意図したかはわかりませんが、この物語はそこに焦点をあてて話が展開していくように思われて、そこがおもしろいなと感じました。
posted by MSCOスタッフ at 23:50| 本や映像から

2013年10月11日

「親になること」について

見つめること

 先日、『そして父になる』という映画を観てきました。この監督の映画は、どれも登場人物の情緒表現が自然で繊細なのが気に入っていて、欠かさず観ています。何気ない仕草や行動に胸を打たれることが多く、これは作り手の観察力がなせる技だな、といつも感心します。きっと、人間をきちんと見つめている作り手なのでしょう。
この映画のテーマである「親になること」を考えたときにも、「見つめること」の大切さを思いました。

 映画の中では、出生時に子どもを取り違えられた2つの家族が対比的に描かれるのですが、その象徴的な場面として、エリートサラリーマンで子どもの教育に厳しい反面、関わりは希薄な主人公と、生活ぶりはだらしないけれども、いつも子どもと一緒にいるもうひとりの父親とが子育てについて話すシーンがあります。主人公が、「子どもと一緒に過ごす時間が多ければ良いというものではない」というのに対して、もうひとりの父親は「それは違う。時間だよ、時間」と言います。子どもと遊び、時間を共有することが大事だというのです。

 私は、臨床心理士として多くの親子と関わる中で、一緒にいる時間の長い親子が必ずしも良い関係を築けているわけではないことを知っています。その点では、この主人公の言う通りだと思いますが、だからと言って、この人のような親はだめでしょう、と思う。でも、もうひとりの父親のいうように、ただ子どもと一緒に遊ぶ時間をたくさん持つのが良い親だとも思えない。映画の中でも、「親になること」の答えは出ないまま終わります。

 映画を見終わり、「親になること」ってどういうことだろう、と考えていたとき、ふと思い出した言葉があります。20年ほど前になるでしょうか。当時有名なコピーライターが言っていた「見つめることは愛」という言葉です。

 映画の終盤、主人公が、デジタルカメラに納められた写真を何気なく繰るシーンがあります。そこには、息子が撮った自分の姿が何枚もありました。それを見て、主人公である父親は、息子がいつも自分を見つめていたことを知るのです。そして、父親である自分は息子を見つめていなかったことを。

 子どもはいつも親を見つめています。そして、親から見つめ返されることを求めています。それが愛情だということをごく自然に学んでいるからです。子どものまなざしは、強く激しいので、親は息苦しくなり、この映画の主人公のように目をそらし、背を向けたくなるかもしれません。でも、だからこそ、そのまなざしをきちんと受け止め、見つめ返すことができなければ親にはなれないのではないか、と思ったのでした。
posted by MSCOスタッフ at 16:39| 本や映像から

2013年07月29日

“世界”の見え方

ルリボシカミキリ

『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』 福岡伸一 著

 とある高校生の宿題を手伝ったのがきっかけだったのですが、国語のテキストに出てきた生物学者の福岡伸一さんのエッセイから色々刺激を受けています。福岡伸一さんは「動的平衡」という言葉を扱った『生物と無生物のあいだ』という新書がベストセラーとなり有名になった方ですが、科学者でありながら詩的で読みやすい、美しい文章を書かれる方です。最近では、教科書や受験問題に引用されることも増えているとか。

 そのテキストは、『ルリボシカミキリの青』という文庫本のプロローグからの引用でした。「昆虫好き少年だった福岡ハカセ」が、生物学/科学の観点から興味深く“世界”の見え方を教えてくれるというショートエッセイ集なのですが、この中では先述の「動的平衡」の他、「センス・オブ・ワンダー」、そして「世界の見え方/世界をどう記述するか」といったキー・ワードがよく出てきます。
 「センス・オブ・ワンダー」というのは、「世界の不思議さ・神秘さに目を見張る感性」といったように訳されていますが、この感覚については昆虫好き少年であった福岡ハカセにとっての重要な体験、「フェルメールさえ再現できないであろうなんともいえない青」という昆虫の色の神秘的な不思議さ、感動体験(センス・オブ・ワンダー)を例として、度々強調して説明がなされています。こうした体験こそが、その後生物科学を通じて“世界”を知り“世界”を記述したいというハカセの欲求の原動力になっていたのだ、ということをハカセは熱心に伝えてくれているのです。

 そうして研究に励む中で、遺伝レベルの生物学からハカセにわかってきたことが、エッセイの内容です。我々の見えている“世界”の見え方がいかに錯覚思い込みによってズレやすいか。いかに“世界”が興味深く神秘的であるか。

 そして“世界”の見え方を多元的に興味深く広げてくれる例として、福岡ハカセは「動的平衡」を挙げます。この「動的平衡」というのは、「絶え間なく交換、変化しているにも関わらず、全体としては一定のバランス=恒常性が保たれる系」というように定義されます。
 大雑把にいえば、炭素や酸素などの原子レベルで調べていくと、人間の身体はなんと半年もたてば元のものが残っていないくらい、身体の組成物が刻一刻と入れ替わっている。しかしもちろん全体としては、一個の人間がそのまま保持されている。生物学におけるミクロの視点でいえば、人(生物)は食物や大気から取り入れたものをアミノ酸レベルで絶え間なく分配、調整、排泄を繰り返しており、その構成要素は「川の流れのように」一定に留まるということが全くない、ということがわかっているそうなのです。
 つまるところ、昨日他の生物(人や動物)の中にあったものが今日は自分の中にあるのであり、また今自分の中にあるものが明日には他の生物のところに入れ替わっているという、地球規模の大循環系があるということになります。
 事実、それぞれの地球にある元素の総量というものは昔から一定しているということもわかっているそうで、私はこれらのことを考えてこれまでの世界観が洗われるような、大変不思議な感覚になりました。



 「動的平衡」ということからイメージを膨らませると、自分と他人、世界とのつながり関係性、輪廻生まれ変わりなど様々な考えが膨らんできますが、そこはさておき、私としてはやはり“世界”の見え方、“世界”をどう記述するのか?といった観点で、心理療法との共通性を強く感じ、とても興味深く思うのです。

 我々の“世界”の見え方というものは、気をつけていてもやはりとても一面的で、ある種の思い込みの中で生きているとも言えます(実は心理学でも、歴史的にゲシュタルト心理学、知覚心理学という系譜でこうしたことを考えてきている歴史があります)。

 それはそれで人の性なわけですが、 見えている“世界”が偏った形で固定化し、閉塞状態に陥ったり絶望感に圧倒されてしまった時というのは、いわゆる抑うつの状態であるといえます。そうした際には、やはり1つの選択肢として心理療法を活用してもらえれば、と思うのです。
 その人にとっての “世界”の見え方に近づき、一緒にその人の“世界”を体験しようとする。多面的、重層的に“世界”を見たり、体験したりしようとする。心理療法はそんな共同作業なのではないか、と私自身は感じています。

 その為にも、私自身 “世界”をいかに柔軟に自由に味わうことができるか、ということをいつも意識しているのですが、 “センス・オブ・ワンダー”はそのための鍵である、ということを福岡ハカセは伝えてくれているように思います。そして「動的平衡」ということを考えた時、“私自身”でありながら、色々な意味で常に固定的ではなく動的でありたいものだな、と改めて思い知らされたのでした。

 ハカセの著作はたくさんあるのですが、特に「ルリボシカミキリの青」は文庫化もされており、ショートエッセイ形式で読みやすくオススメです。夏の読書の候補として、いかがでしょうか?
posted by MSCOスタッフ at 01:07| 本や映像から

2013年06月02日

『ダヴ リアルビューティー スケッチ』の紹介

似顔絵

 アメリカで放送されたDoveのCMを観ました。心地よい短編映画のような映像です。(日本語の字幕あり)
犯罪捜査の時に、説明を聞くだけで似顔絵を描くプロが女性を描きます。1枚は、顔を合わさずに本人の語る特徴を元に。もう1枚は直前に本人と初めて会った人が語る特徴から。そうしてできあがった2枚の似顔絵を本人に見せるという内容。
 つまり、自分で思っている自分と、他者から見た自分を、並べて見比べることになります。意外なのは、どの女性の似顔絵も、自分で思っているものより他者から見たものの方が本人によく似ています。そして、表情や雰囲気も他者から見た方があきらかにステキです。その時の、女性たちが驚く表情もとてもステキ。


>ダヴ リアルビューティー スケッチ

 このCMでは容姿の違いだけを語っているのではありません。他者の説明で描いた似顔絵は「客観」ですけれど、「写実」ではないんですね。「主観的な自己イメージはネガティブになりがち」というだけなら、写真と比べれば一目瞭然なはずですから。
 そうではなく、比べるのは本人と待合室で会って話をした人が、思い出して説明したもの。
つまり、一緒に時間を過ごして会話を交わし、その関わり合いの中で人に残った印象。そこから描き出された似顔絵だということ。人が人から受け取る様々なエッセンス。表情や振舞い、雰囲気。それらを生みだす内面とか。そういったものがトータルされて、相手に伝わり、描き出されたのではないかと思うんです。
 人との関わり合いの中に、いつの間にか自分が表現されていて、そこに気づかないでいたほんとうの自分がいるのかもしれない。そう思うと、人との関係性の中であらためて自分自身を発見したい気持ちになります。
タグ:似顔絵 ダブ
posted by MSCOスタッフ at 16:40| 本や映像から

2010年07月06日

自分のかいじゅうに出会う

かいじゅう

『かいじゅうたちのいるところ』 モーリス・センダック著 スパイク・ジョーンズ監督
 モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』が映画になりました。公開に先立って雑誌に組まれた特集を読みつつ楽しみにしてましたが、絵本を映画にするのは、いったいどうやるんだろうと、エッセンスだけの短いお話をどうやって映画サイズにするのだろうか、不思議に思っていました。
 そして、映画館で見てみると、予想以上によくできていました。かいじゅう一人ひとりのキャラクター付けがされていて、まあその分こちらから投影できるものが限定されてしまうわけですが、嫉妬があったり、すねていたり、4,5歳の子どもの中にいるんだろうなこういうかいじゅう、と思えました。
 着ぐるみ4頭身のかいじゅうと主人公のマックスが話しているシーンがなんともかわいかったり、周りの木をなぎ倒しながら折り重なって遊ぶかいじゅうたちを、なーんてばかで楽しそうと思ったり。すっかり魅了されてしまいました。でも心の中にかいじゅうを飼っているのは子どもだけではないですね。

 センダックの絵本は、私は大人になってから出会いました。絵本というと、かわいい絵だったり、幻想的だったりという漠然としたイメージを持っていましたが、センダックの絵は全然違ってました。非現実的だけどどこかとても現実的で、かわいくない、むしろ怖い、でも魅力的でした。どうしてなんでしょう。
 センダック自身は、『かいじゅうたちのいるところ』について、子どもの自分からみた大人をモデルにしたと述べています。日曜日にやってきて、大きな鼻や食べ物の入った口で、決まって「大きくなったわね」という大人だそうです。子どもから見るとさぞ不気味だっただろうなと思います。その感覚を忘れないでいられるのが才能なんでしょう。
 彼の『ミリ―』という、天使に会いに行く女の子の話があるのですが、そこでおそらく戦争で亡くなった子どもたちの中に、そっとアンネ・フランクを描き入れているシーンがあります。本当に怖いものを描けるんですね。 

 自分の中の淋しさや満たされなかった気持ちも、どこかかいじゅうに似ていると思う時があります。カウンセリングやあるいはニュースで聞く話の中には、じっさいにかいじゅうさながら暴れたり、けんかになったり、事件になったりということはよくあります。
 映画の中で、「食べなかった王様は一人だけ、本当だよ」というセリフがあり、背中がゾ〜っとしたものでした。そういえば骨も積み重なっていたっけ…と。一度“かいじゅうたちのいるところ”に渡ると、そこからでられなくなったり、食べられてしまったりすることはときどきあることなんでしょう。マックスが帰ってこられたのは、心の中のお母さんの存在があったから、「ママに会いたい」があったからです。
 かいじゅうにママが必要なんだということも彼は言っています。自分の心の中のかいじゅうのママになれるのは、自分なのでしょう。もちろんじっさいのお母さんとの幸せな体験や、外のいろいろな人に少しずつ“ママ”を映して体験してきたことが助けになるのでしょうが。そうしたことで自分の心の中の“ママ”を育てていくのかもしれません。
 映画の最後のほうで、帰ってきてご飯を食べながら話をしているマックスの前で、心配で疲れ切ったお母さんが居眠りをするシーンがあります。それをマックスが満足気にやさしい顔で見守っていました。どっちがお母さんなのかと思えるほどでした。
 かいじゅうの島に渡り、自分のかいじゅうに出会い、友達になり、王様になり、また帰ってくる一連の体験で、マックスの心の中に育ってきたものがあったのではないでしょうか。お母さんの中にもかいじゅうがいて、ときどき島に渡るのかということもどこかで理解したのかもしれません。
 さてさて私のかいじゅうは…?
posted by MSCOスタッフ at 19:51| 本や映像から

2010年01月12日

進歩させるべきでない領域

ぼくは勉強ができない

『ぼくは勉強ができない』 山田詠美 著
 教育機関でカウンセリングをしている時、生徒さんによっては読書の関心を通じて関わっていくことも結構あり、いわゆるケータイ小説から、古典的に太宰治の話になったり、夢野久作といったややマニアックなものも出てきたりして、いつも興味深く思っています。「先生にこれを読んでみて欲しい」と言われたりすることもたまにあって、そのうち全部ではないのですが、本人には何も言わずこっそり後で読ませてもらったりして、意外な読書の楽しみを味わさせていただくことがあります。

 そんな中で印象に残っている本に、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』という短編集があります。「勉強はできないし家庭もやや複雑だけれど、とても女の子にはモテる」という男子高校生・時田秀美くんの高校生活を描いたものなのですが、高校生に関わる大人側として読むと、改めて色々と考えさせられてしまいます。あとがきで著者は、"私はこの本で、決して進歩しない、そして進歩しなくても良い領域を書きたかったのだと思う。大人になることは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ"とおっしゃっているのですが、そうしたことはカウンセリング場面でもよく感じることなので、私の中でもとても腑におちるものがあります。

 進歩とか成長といった言葉には大きな魅力があるようで、「成長したい」「変わりたい」という言葉は、カウンセリング場面では(当然ですが)よく出会います。そしてカウンセラーもそうした援助をする専門家である以上、そうした方を思わず素直に応援したくなる気持ちが出て来てしまったりするわけですが、実はこれはカウンセリングにおいては危ない罠であったりもするので、個人的によく気をつけるようにしています。

 というのも、ご本人が変わりたいという発言していたとしても、内心では成長や変化をどこか怖れていたりすることは少なくないですし、マスコミなどの影響による強迫的なダイエットにみられるように、社会や家族といった本人以外の外圧によって(時に無意識的に)「変わりたい」と言わされていることだって、現代では珍しいことではありません。また、本来の自分自身を過小評価したり自己否定した上での「変わりたい」発言であったりすることもあれば、エネルギー不足で身動きが取れない状態にあるなど、「まずは動かないこと」が必要な時だってあったりします。

 ですから、一口に「変化」「成長」といっても、その人にとっての意味するところ・情況をよく吟味しないままカウンセラーが"いいこと"と思ってそこに乗ってしまっては、目の前にいる人の真情、痛みやつらさがうまくキャッチできなくなってしまうことにもなりかねないわけです。「(ご本人共々)正論やきれいごとに丸め込まれてしまっていないか?」「何がこの人にとって本当によいことなのか?」とカウンセラーもずっと葛藤していなければ、うまくいかないのがカウンセリングというものなのだなぁと、いつも思います。

 とりわけ、主人公・秀美くんのような世代──思春期から大人へ、自立していく過程の中では、「成長し、大人になる」ということが、家庭や学校といった大人から金科玉条の如く求められます。だからこそ、自分にとって"進歩させるべきでない領域"も考え大切にすること、キープすることが重要なのでしょうし、時には戦うことだって必要になるでしょう。

 そして、それはむろん思春期に限らずある程度「大人」になっても、色々な形で調整しながら、絶えず続いていくプロセスでもあるのだと思います。
posted by MSCOスタッフ at 20:39| 本や映像から