2016年04月28日

自分と向き合うことについて

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 趣味として写真表現の勉強をはじめた頃、「一般的な美意識ではなく、自分自身が美しいと感じるもの、面白いと感じるものを撮るのが写真表現だ」ということを繰り返し叩き込まれました。きれいな花を見れば、誰もが「きれいな花だ」と思いますし、美しい景色を見れば、誰もが「美しい風景だ」と思うものです。でも、それは、本当にその人が感じていることではなく、「きれいな花」「美しい風景」という記号化されたイメージを取り込んでいるだけ。そういうものを写真に収めたところで、それは、ただ「一般に美しいといわれているものだから写真に撮った」という撮影行為でしかなく、写真表現ではないのだということです。

 さて、そのように叩き込まれて自分独自の表現を求めてカメラを構えるわけですが、一般的な美意識を離れて、自分自身が美しい、面白い、と思う写真を撮ろうと対象物と対峙したときに、このもの(ひと)のここが面白い、と自覚することは、実は容易なことではありません。「何か心を惹かれる感じ」や「違和感」があればカメラのレンズを向け、ひたすら写真を撮り続けるしかありません。でも、それをプリントして形にしてみると、自分が何を見ていたのか、どんなものを面白いと感じるのかがぼんやりとわかってきます。
 さらに、目の肥えた写真家がその写真を見ると「あ、ここが面白かったんだね」とわかってくれたりする。自分ではぼんやりとしかわからなかった感覚が、他の人に見てもらうことで確認でき、きちんと形になることも多いのです。「そう。そこなんです」と共有できることの楽しさ。「人からわかってもらえること」のうれしさに心が躍る瞬間です。そういうことを繰り返していく中で、だんだん自分自身の撮りたいもの、自分自身の個性が見えてきたように思います。

 ひたすら写真を撮り続けてプリントすることを繰り返す作業は、なかなかしんどいところもあるのですが(特にフィルム写真は暗室作業があるのでたいへん)、それでも、自分の撮った写真を自分と一緒に面白がってくれる人がいることがうれしくて夢中で写真を撮り続けました。そして、「写真を撮り、見てもらうこと」を繰り返す中で私自身が思うようになったのは“人間というのは、自分を理解してもらいたい欲求が非常に強いのだな”ということです。
 これはおそらく、花や風景、人物をどうやったら上手く撮れるか、という一般的な『写真の撮り方教室』では感じなかったことではないかと思います。『写真表現』を突き詰める過程で見えてきたことなのです。

 人間という存在は、自身の個性を表現し、それを誰かにわかってもらいたい欲求があるのではないでしょうか。でも、そのためには、自分が何を見て何を感じているかを自覚しなくてはならない。つまり、自分自身と向き合わなくてはならないのです。
 花の美しさを誰かに伝え、共有できたとしても、“自分をわかってもらえた”と感じることはできないはずです。自分自身の独自な部分を自覚して、それを他者に伝えることを通じてしか、本当の意味で“自分をわかってもらえた”とは感じられないのではないでしょうか。「独自な自分」は、必ずしも他者から賞賛され、好かれるように感じられないかもしれません。でも、それが自分なら、受け入れていくしかないのだと思います。

 カウンセリングに来られる方の多くは、「人から受け入れてもらえないような自分は嫌だ」と言います。だから、そういう自分を隠して、あるいは、はじめから「いないこと」にして、人から受け入れられるように振る舞うのです。でも、自分からそのようにしていながら、一方で「誰もわかってくれない」とも言います。「本当は、自分のことをわかってほしい。でも、ありのままの自分では誰も受け入れてくれないだろう。それなら、人から好かれるような自分を演じている方がましだ」ということです。ただ、皆さんカウンセリングを受けに来られているわけですから、そのことが実はとても苦しいということなのです。

 自分自身と向き合うのは、確かに勇気がいることですし、苦しいものです。でも、自分と向き合い、欠点だらけの自分を自覚してそれを伝えることができたら、どこかにそういう自分を理解してくれる人がいるかもしれません。誰か1人でも理解してくれる人がいたら、それはどんなにかうれしいことでしょう。
posted by MSCOスタッフ at 17:09| 心理エッセイ